安戸城の歴史

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腰越城

 安戸城より東700mの宿(旧安戸宿)に山田氏館が在り更にその東の比企郡小川町との境に同山田氏の城腰越城があります、山田氏は上田氏の家老で大河原氏と同じく丹党です、16世紀後半東秩父村から小川町腰越にかけて山田氏の知行地と成り安戸城も山田氏の管理する城であったと考えられます。

安戸谷

(腰越城から見た山田氏館、安戸城)

 その昔、秩父郡東秩父村安戸の地は武蔵七党丹党大河原氏が開拓し居住していました、大河原氏は丹党主家中村氏の出で安戸の現浄連寺を館としてその700m東に安戸城を築きます、1416年(応永23年)上杉禅宗の乱の後に中村氏が衰退すると同様に大河原氏も安戸からその名が消滅してしまいます、その後安戸は比企郡に勢力を張った上田氏の領有する所と成りその本拠地である松山城に移る以前安戸城に一時居城していたとも伝えられています。

安戸谷の防衛

 上田氏が小田原北条氏の傘下と成ると比企、秩父方面は常時上杉謙信、武田信玄の侵入に脅かされます、その為山田氏は自領の安戸谷の東西を腰越城、安戸城て堅め自主的防衛作を取るのでした。

 上の写真を見ると山田氏館を中心として安戸谷が広がり西に安戸城、東に腰越城が存在しています、大凡安戸城と腰越城の間が山田氏の知行する地域であったのでしょう。

 安戸谷の中央を菅谷、小川方面から寄居、皆野方面に向かう街道筋が通っています、重要な事はその街道筋を安戸谷の東と西の玄関口(腰越城、安戸城)で押さえる事です、ただし山田氏の本領は300石程度で家臣の所領をあわせても1000石越えるか越えないかの小領主でありその兵力は50人そこそこでした、その為合戦度に領民を駆り出し防衛にあてていたと考えられ領民達も又備蓄した食料などを敵兵に奪われまいと積極的に戦いに参加したのでしょう、当時の農兵は給料制で雇われている足軽と異なり「無償」所謂ボランティアで占領した地域での略奪品が給料の様なものであり略奪、暴行は当然に行われていました、故に守る側も領主、領民一丸と成って防衛にあたっていたのです。

(googleアース使用)