松山城の遺構2
(松山城の外周)

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 三ノ郭の東側が根古屋地区で所謂家臣団の屋敷群でした、近年の研究で小田原北条氏により此処根古屋地区は独立した郭に改築され大堀なども存在していた事が分かってます。

根古屋地区

 松山城は比企丘陵の突起した台地状の地形に築かれ城でその台地状の地形を迂回する容で市野川が北から南へ流れています、松山城の東側の台地には家臣団の集落が在り市野川対岸の西の平野部には町屋が形成されいました、城下集落は松山城を挟んだ東西に存在していたのです。

惣郭北側の竪堀群

 惣郭の北側は河川の反乱による浸食で形成された段丘と成っています、壁面には深く切り込まれた竪堀が幾つか在ります、特に岩室観音堂の山門が建つ竪堀は深さ7m、長さ40m程ある巨大な竪堀です。

(岩室観音堂の竪堀)

市野川の流れ

 松山城の西側を囲む容で市野川が北から南へ流れています、当時市野川は城の西端の守りと成っていました。

城下元宿

 市野川の対岸、現在の松本町に在る妙賢寺付近は元宿と呼ばれ城下の町屋が建ち並んでいました、元宿では5と10の日に市が開かれ近隣地域から雑貨、織物などが持ち込まれ取引されていました、また戦国末期には松山城主上田憲定により元宿から南の新宿まで宿場が拡張されそこで問屋経営を認め楽市制が行われました、これら元宿、新宿の宿場と城の東の根古屋地区を合わせ戦国末期の頃に松山城下は江戸、川越と並ぶ武蔵国最大級の町に成長したのです。