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朝貢貿易の影響か?

中世のショピング街
  行司免遺跡

 大蔵館の西側、搦手方面より鎌倉期から室町期にかけての遺物、中国製の磁器、和鏡、渡来銭などが多数見つかってます、これは荒川の支流である都幾川と鎌倉街道の合流点で交通の要所、大蔵に大規模な市、ショピング街のような町が存在していた事を表しています。
 この現在行司免遺跡と呼ばれる市の最大の特徴は集落を囲った市であることです、要するに中世において一般的に市と言われる付近の集落が月の内に指定された日に物を持ち寄り売り買いする市とは異なりこの行司免遺跡での商いを専門的に管理運営する集落が存在していたのです、この点から市と言うより商店街、ショピング街に近い存在でした、西国経由で運ばれた品々が江戸、鎌倉を通りここ比企郡へもちこまれたのです。

 鎌倉から運ばれた物品は鎌倉街道から直接大蔵まで持ち込まれ、江戸を通して持ち込まれた品は一度、荒川に入り更に都幾川に入り行司免遺跡の船着場で荷揚げされたと考えられます。

 この行司免遺跡ですが大蔵館の主の管理下に措いて運営されていたのでしょう?鎌倉街道と都幾川の交差点大蔵宿に在り、大蔵館と都幾川対岸の菅谷館に挟まれたこの遺跡は中世初期の頃から(人、物、文化、権力)といったさまざまな物の接点でした、始まりは単なる地域集落による月数回の定期市のようなものだったのでしょうが時代を経て西国からいろいろな品々が運ばれ更に日明貿易や九州方面と元国との密貿易の影響で大陸から貨幣やさまざまな物品が持ち込まれるように成ったのです。

出土品から見る当時の状況

遺跡から出土した品々から当時の大蔵、比企郡の様子を見て見ましょう