金平遺跡
金平遺跡は中世の主要幹線道路である鎌倉街道上道本道と隣接しています、必要な資材の搬入と完成した製品の輸送を考慮してこの土地に鋳物工場を開いたのでしょう。
鎌倉街道
鋳物工場の南側に集落跡が見つかっています、鋳物工場で働いていた鋳物師の居住区域であったと考えられています、また工場区域、居住区域の西側には鋳物師の墓地と思われる穴が幾つか発見されています。
集落跡
鋳型の解体場
鋳型は下半分を土坑と呼ばれる地下に掘られた穴に埋め込まれます、この方法を鋳込土坑と呼び鋳込(溶解された金属を鋳型に流し込む作業)の際に低い位置に溶けた金属を流し込むため安全でスムーズな作業を行う事ができるのです。
鋳型
金平遺跡内の施設
井戸の跡も見つかっています、冷却に必要な水をこの井戸から汲みだしていたのでしょう。
溶解炉は遺跡の中央に数基配置されていました、主要な作業工程である金属の溶解は工場の中央で行われていました。
嵐山町金平遺跡は三方を山で囲まれた台地上に在ります、鋳型、溶解炉などに不可欠な良質の粘土が収集できて水利に恵まれ最大の供給先である平沢寺に近く更に鎌倉街道に隣接している点からこの地で鋳物生産が開始されたのでしょう。
金平遺跡から竪穴式建物跡と堀立柱式建物跡が見つかっています、竪穴式の建物は炭、地金など材料を貯蔵する倉庫に使われ堀立柱式の建物は作業場全体を見渡せる中心の位置に在る事から管理施設であったと考えられます。
溶解炉
鋳型に流し込まれた金属が冷却すると型ばらし(鋳型の解体)が行われ仕上げ処理され製品と成ります、解体された鋳型、溶解炉の破片は粘土を採取した穴に埋められていました。
現在の平沢寺と平沢寺の裏山から発見された鋳銅経筒
埼玉県比企郡嵐山町志賀の金平遺跡は今から700年程前の鎌倉期から室町初期にかけて操業されていた中世の鋳物工場でした、その主な生産品は梵鐘、仏像のような仏具です、金平遺跡の操業時期と遺跡の存在する嵐山町志賀に隣接する同嵐山町平沢に在る中世の大寺院平沢寺の最盛時期と一致する事から当初平沢寺に仏具を供給する為に開かれた鋳物工場であったと云われ更に比企郡内には慈光寺、岩殿正法寺のような比較的大規模な寺院が幾つか存在していた事からそれら寺院の仏具を一環して製造する仏具生産工場と成り室町初期の南北朝の騒乱時に衰退したと考えられています。
埼玉県内には金平遺跡以外に寄居町の塚田遺跡、東松山市の小代遺跡、鳩山町の小用遺跡、坂戸市入西の金井遺跡など大凡同時期に操業していた鋳物工場の遺跡が幾つも点在しています、これら鋳物工場は鎌倉初期に西国から招かれた物部、丹冶、広階姓の高い技術を持つ河内鋳物師(いもじし)により鋳物製造技術を伝授され操業開始した鋳物工場跡です。
水場