中世関東方面に見る廻船
伊勢船
鎌倉期、伊勢方面と東国間では年貢などを上納する際に海上輸送が行われる様に成り廻船が登場します、室町期に入り西国の海の玄関口として大湊、桑名などの湊町が成長すると武蔵国(六浦、品川、江戸)との海上交易が盛んに行われ廻船も大きく改良されます、当時の江戸湾は西国からの積荷を満載した伊勢船が頻繁に来航していました。
室町中期以降に太平洋東海航路で使用された大型構造船で二形船と並ぶ当時の代表的な廻船です、船首の部分が箱型の形状をなしています、船体に擬装を施してそのまま安宅船の様な軍船として使用する事も可能でした、全長は大凡20mから40m位で最大積載量は100石から500石位が主流です、速力よりも積載量を重視した構造の船首箱型船体である為に航海時の水切りが悪く江戸初期には姿をけしました。
船首は箱型で二形船または北国船(中世から江戸期に使われた日本海航路の廻船)の様に船首下部が先鋭な水押構造で無いので航海速度はさほど出せませんでした。
和船は西洋式の船と異なり竜骨が無く板を釘で張り合わせた構造であり外板そのものが骨組の代用と成っています。
伊勢船、二形船など中世の頃の廻船には甲板も無く現在の手漕ぎボートを大型にした様な造りで大波をかぶり船内が浸水する事も頻繁にありました。
帆の部分はムシロが使用されていました、甲板が無い為に帆柱をしっかりと固定できないの事から強風時の帆走は困難でした。
当時の和船の特徴として帆柱を倒す事ができます。
船尾の舵は取り外し可能で破損した際に予備の舵と交換していました。
河川、近海輸送用の小型廻船、平田舟
戦国中期には西洋人により羅針盤、六文義などの航海用具が既に国内に伝わっていましたが当時の国内の長距離航海は陸の見える範囲で沿岸を航行していました。
品川、江戸に運ばれた積荷は小型の廻船に積み替えられ多摩川、旧入間川(荒川)、旧利根川(江戸川)から内陸へと運ばれもしくは江戸湾を横断して房総へ運ばれていました、それら輸送業務に使用されたのが平田舟または高瀬舟、江戸期の五大力船などの小型廻船です。
大型廻船で西国から運ばれた積荷は品川、江戸の湊で問と呼ばれる商品管理業者に委託され一時保管された後に小型廻船で多摩川、旧入間川、旧利根川を北上して内陸各地へ持ち込まれていました。
埼玉県内の入間、比企方面の当時の遺跡から渡来銭、青磁器、天目茶碗などが見つかっています、これらの出土品は品川、江戸の湊を経由して河川で運ばれた西国からの品々であると考えられます。
平田舟は河川の航行を想定した構造で船底が平な為にそう呼ばれていました。