中世桑名湊

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中世桑名湊

 桑名の湊は木曽川、長良川、揖斐川が伊勢湾で合流する位地にあり古代より水運業の拠点と成っていました、桑名湊から伊勢湾を渡り尾張国、三河国へ、または桑名湊から河川を利用して内陸へと桑名湊は古くから物流の中継地として発展したのです、当時の伊勢湾には各地に点在する伊勢神宮の御厨(荘園)からの御調物を運ぶ神船が頻繁に往来していました、それら神船は伊勢湾を出て太平洋を東海道沿いに北上し関東にまで来ています、鎌倉期に入ると伊勢神宮の下で貢物の輸送や一般の商品の輸送、保管、委託販売を行う問と呼ばれる商品管理業者が出現し桑名湊、大湊など伊勢湾内の湊津に集められる商品の管理を一環して賄う様になり関東、東海方面や瀬戸内方面などの遠距離海上輸送を一手に請負います、しかし応仁の乱以後、伊勢神宮の荘園は押領などにより衰退すると貢物などの輸送が停滞しそれまで伊勢神宮が独占していた伊勢方面の海上交易権は神宮の下請業者的存在であった問屋衆へと受け継がれます、16世紀初頭には桑名湊、大湊はそれら問屋衆による自治都市化が進められ堺、博多と並ぶ自由交易都市へと成長し桑名湊は「十楽の津」と呼ばれる様に成りました。

桑名城

 揖斐川に隣接するこの城は1513年(永世10年)伊藤武左衛門がこの地に館を築いたのが起源です、1570年(元亀元年)石山本願寺の蜂起に乗じて長島一向宗門徒も蜂起、長島城の伊藤重信を追放し城を奪い次いで桑名城の織田信長の重臣滝川一益を敗走させ桑名城も占領します、桑名湊は一時一向宗門徒の支配する所と成ったのです。

(主郭神戸櫓址)

主郭天守台と鎮国神社

ニノ郭と三ノ郭

七里の渡場

 桑名の市街地は各所に江戸期の石塁、掘が残っています。

外堀と石塁

旧東海道

 七里の渡場に隣接するこの櫓は揖斐川を見下ろすかたちで建っています、江戸期の桑名城にはこの様な櫓が51棟存在していたそうです。

蟠龍櫓

 七里の渡場の南の桑名城の外堀は揖斐川に繋がり船の係留地と成っていました。

 江戸期、桑名宿と宮宿(名古屋市熱田区)間は東海道の唯一の海路でその距離が七里であったので七里の渡場と呼ばれていました、当時この付近には舟番所、高札場、本陣、人馬問屋が在り宿の渡場は宿の中心と成ったいました。

七里の渡場付近の外掘

揖斐川

 街道筋から少し離れますが赤須賀地区には東海道の宿場時代を思わせる古い町並みが見られます。

 東海道の宿場でもあった桑名宿には現在も旧東海道筋付近に京町、職人町、油町、風呂町、北魚町、江戸町と当時地名が今も残っています。

赤須賀地区の古い町並み

長島城の掘址と東の水濠長島川

 長島城は現在この大松が植えられている長島中部小学校と北隣の長島中学校一帯でした。

 長島城本丸の樹齢300年の大松

 長良川と合流した揖斐川は伊勢湾へと注ぎます、中世から江戸期にかけて東海、関東方面に向かう廻船がこの揖斐川を頻繁に往来していました。
                 (写真下の石塁は江戸期に造られたものです。)

長島城

 桑名宿から揖斐川と長良川を挟んだ対岸に位地する長島地区は室町期一向宗門徒が勢力を持っていました、此処長島地区の長島城は織田信長に味方する伊藤重信の城でしたが1570年(元亀元年)石山本願寺の蜂起に乗じて長島一向一揆も蜂起して長島城と桑名城を攻め落とします、此れ以後1574年(天正2年)織田信忠を中心とする織田軍が一揆を鎮圧するまで桑名湊とその交易権は長島一向宗が握っていました。