鎌倉街道品川宿

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中世、伊勢〜品川海上交易
中世品川湊
中世関東方面に見る廻船
中世桑名湊

 中世品河湊は鎌倉街道の宿場でもありました、鷺沼で鎌倉街道中道から分岐して丸子の渡し場で多摩川を渡り此処品河宿を抜け現在の大手町(江戸城下)経由で上中里付近からまた中道と合流し岩淵へと向かう街道筋でした、品河宿は品川(目黒川)を境に南北に町並みが分かれ宿とその周辺には寺社仏閣や蔵が幾つも建ち並び海陸の物流の拠点として大いに賑わっていたのです。
 品河宿は元々鎌倉幕府の命により御家人品川氏が統治していましたが1416年(応永23年)上杉禅秀の乱に品川氏が加担したとされ1424年(応永31年)鎌倉公方足利持氏に品河宿を含む品川氏の大半の領地が没収されます、その後品河宿は鎌倉公方足利氏の直轄地と成りますが享徳の乱で公方足利成氏が古河へ退去すると関東管領山ノ内上杉氏及び扇谷上杉氏の勢力下におかれ小田原北条氏の武蔵国進出後には品河宿は北条氏の重要な財源の一つと成ったです。

品河南宿

 品河宿を抜ける街道筋は鎌倉街道中道本道を荏田から鷺沼に進みそこから丸子の渡し場へと向かい此処南宿へと到達する道筋でした。

 鎌倉街道筋の宿場である品河宿は江戸期に東海道筋の宿場でもありました。

海晏寺

 1251年(建長3年)鎌倉幕府五代執権北条時頼の開基、南宋より渡来した僧侶蘭渓道隆により開山、本尊は品川沖で捕獲された鮫の腹から出た観音像であったとされこの付近を鮫洲と呼ぶ様になったと云われています。

品川寺

 品川寺と書いて(ほうせんじ)と読みます、大同年間(806〜810)弘法大師により創建され1457年(長禄元年)太田道灌により伽藍が寄進され以後大円寺と号して1652年(承応元年)の再建を期に寺命が品川寺と定まりました。

品川南宿の品川松

 品川と同じ東海道筋の浜松より寄進された街道松です、また此処から150m南に三島市より寄進された街道松植えられています。

目黒川

 目黒川は中世の頃品川と呼ばれていました、この目黒川を境に品河宿の町並みは南北に分かれていたのです。

品河北宿

 目黒川を越えると品河北宿へ入ります、鎌倉街道筋は此処北宿から現在の大手町(江戸城下)を越えて上中里で鎌倉街道中道本道と合流し岩淵宿へと向かっていました。

荏原神社

 709年(和銅2年)に建立され1062年(康平5年)源頼義、義家は奥州安倍氏討伐の際に此処荏原神社と大国魂神社に参拝し品川の海中で身を清めた事から後に当社は品川の総鎮守と成ったと云われています。

品川神社

 1187(文治3年)源頼朝が海上の安全を祈願して建立したと云われ品川神社は北の天王社、荏原神社は南の天王社と称されています。

清徳寺

 新編武蔵風土記稿によれば清徳寺は1332年(元徳2年)真照大定禅師により創建され天文年間に梅江和尚により中興されたと記されています。

御殿山

 御殿山は現在のJR品川駅南側のJRの線路から第一京浜一帯に存在した品河宿を眼下に見る丘状地帯です、現状山は取り崩され平地と成っていますが太田道灌が江戸城を築城する以前にこの御殿山に館を構えていたと云われています。

 道灌が館を構えた御殿山からは品河の宿場と湊を一望する事ができました。