浦山村風土記2
集落の外れに板碑が数基立てられています、その昔落武者らしき人達がこの地に御堂を建てようとしたところ完成まじかに何者かに斬殺され板碑はその供養の為に立てられたと云われています、板碑には1403年(応永10年)、1472年(文明4年)と刻まれているので数回に分けられて立てられた事がわかります、その点からこれら全ての板碑がその話と関連があるとは考えられません、現状板碑を囲っていた御堂の屋根は数年前の台風で飛ばされた状態に成っています。
江戸期頃に築かれたのでしょうか?一般の農村集落とは思えない程の立派な石積です、また石積には石管による排水設備も設けられています。
冠岩の集落は至る所に石積が段階をなして設けられ集落そのものが石積で固めらた様な状態でまるで中世の要害を見ているようです。
将門伝説で一つ思い出したのですが此処から先の鳥首峠を越えると上名栗に入ります、名栗と言えば戦国期に青梅三田氏の所領でした、三田氏は平将門の末裔と云われています、15世紀末に丹党原島氏が戦に敗れて落武者と成り三田氏を頼りに奥多摩の日原に移り住んでいます、将門伝説、落武者伝説はこれらの話が混合したものではないでしょうか?
冠岩の石積
冠岩の板碑
旧冠岩の集落
ここ旧冠岩の集落は平将門が敗戦した後にその一族がこの地に逃れてきて隠れ住んだのが集落の始まりと言う伝説が残る集落跡です、廃集落以前は6軒程の民家が存在していました。
川俣の三叉路
川俣の集落から1km程先に三叉路が在りそのまま直進すると林道へ入り下名栗、名栗湖(有馬ダム)へと向かい北方向の道筋へ曲がると冠岩、鳥首峠を経由して上名栗へと通じています、双方向とも車両での通行は不可と成っています。
川俣の集落から浦山川の対岸へと朱色の橋を渡ると浦山大日堂が在ります、大日堂では毎年10月頃に獅子舞が奉納され近郊からの見物の人達で賑わいます、また西武秩父駅入口経由の秩父駅前からの村営バスは此処浦山大日堂が終点となります。
(川俣の集落)
浦山大日堂
毛附、川俣の集落
(毛附の集落)
毛附、川俣は浦山地区最南端の現存集落で川俣の集落には1992年まで小学校が在りました、隣接するこの2つの集落は人もそこそこ住んでいて過去この付近の中心的な集落であったのでしょう。
浦山中学から少し進むと浦山川は穏やかな渓流の流れとなります。
73号線沿いに木造モルタル造りの旧浦山中学校の校舎が残されています、1947年に開校して1985年に影森中学校に統合され廃校となりました、開校した1947年当時は浦山村の人口が最も多い時代であったのでしょう。
浦山中学校跡
浦山渓流
旧栗山の集落は10軒程集落でした、各家屋のには土留の為の石積が施されています、古より浦山の民家は山の斜面に家を建てる為にその土台は必ずと言ってもよいほど石積で固められています、これは浦山村の建築文化とも言えるでしょう。
栗山廃集落
浦山大橋渡り100m程先に栗山入口のバス停が在り更にそこから400m進んだ所に栗山のバス停が在ります、数年前までバス停の西側の山手に現在廃集落となった栗山の集落が存在していました。
寄国土から寄国土トンネルを抜けた300m先に浦山大橋が見えます、さくら湖に架かる唯一の橋でワカサギ釣りの人で賑わっています。(橋の中程から糸を下げると大物がかかるそうです。)
県道73号線をさくら湖から浦山川沿いに南東へ向かうと林道(車は通行不可)へと出ます、その林道の先は下名栗(現在飯能市)をぬけて名栗湖、有馬ダムへと通じています、また川俣の集落の1km程先の三叉路を旧冠岩の集落へと進み冠岩から鳥首峠を越えて上名栗へと向かう事もできます、この鳥首峠を越える道筋は中世からの街道筋で現在もハイカーなどに利用されています。
浦山大橋