中世〜江戸期、浦山村の生活

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中世山間農村集落
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浦山村風土記1
浦山村風土記2
秩父市浦山地区MAP

 此処で生産される炭は主に鍛冶屋などで使用される炭であったそうです。

 これら浦山村で生産された薪、炭、布、絹は秩父大宮郷の市へ売りに出しかわりに米、栗などを購入したと云われています。

炭焼きの風景

浦山村の副産業

 浦山村は焼畑からの収穫物だけでは暮らしを支える事が困難で農間の暇に薪、炭などの生産または布、絹を織り出して生活の糧としていました。

 江戸期中頃浦山村に領主より賜った鳥獣用の鉄砲が54丁あったと云われてます、当時銃砲の規制が厳しい江戸幕府の政権下において一般の農村集落に54丁もの鉄砲を授け与えたのですからその被害は村民の生活そのものを脅かす程であったのでしょう。

 浦山村では鹿、猪、猿、狸などの諸獣による農作物への被害が後を絶ちません、そこで古来より浦山の村民は耕作地付近に見張小屋を建て昼、夜無くまた雨の日も霧が深い日も後退で諸獣の追い払いに勤めていました、この様な獣による被害は現在も続いているそうです。

諸獣による農作物へ被害対策

 古来より斜面の勾配がきつく石まじりの土性である浦山村には水田は無く山林の中腹のいささか平坦な土地を利用した焼畑が農業の主体でした、大凡20年の間地力回復の為に放置した土地を春夏に草木を刈り倒してその草木に火をかけて焼払い残った灰を肥の代わり畑にまき耕作します、同じ土地は4,5年使用してまた別の土地に移動するサイクルで行われていました、作付された主な作物は栗、ヒエ、大豆、蕎麦などで水田米と比較してそれら作物は耕作面積あたりの収穫量が低くなお且つ限られた狭い土地での生産の為に年間通しての生活に必要な収入を十分に満たすものではありませんでした。

焼畑

 「新編武蔵風土記稿」に「さながら石壁のごとく、或は五六尺、或は八九尺にして、階級をなせるもの二段・三段に及べるあり、」浦山村の各民家の土台は石積で固められ浦山の名物と言える程です、急斜面の渓谷沿いは地すべりを起こしやすく浦山村の家々は必ずと言っても良いほど土台が石積で固められています、又その石積と住居が二段、三段と段をなして連なり密集したかたちに形成された集落が浦山地区には多く見られます。

(浦山村石積集落)

 今回は秩父郡浦山村を例に中世から江戸期にかけての山間部の農村集落が如何なる生活をしていたのか見てみましょう、秩父市の南部に位地する浦山地区は西に聳える武甲山の裏側である事から浦山と呼ばれたと云われています、現状浦山ダムの建設によりその水源である浦山川沿いに存在していた集落は水没し更に過疎化により人口は激減状態にあります、もとより浦山村は戦に敗れた落武者により切り開かれた村でその事から人里離れた深い山奥に居住したのです、急斜面の連なる浦山渓谷沿いは人の生活環境として適切とは言えず個々民家は石積により地盤を固めその上に住居を建てる様子で農地も斜面の一部を利用した焼畑が主体であり耕作面積も狭く農業だけでは生活の為の十分な収益は獲られていませんでした。

秩父市浦山地区MAP

住居の石積