中山道
(五十子〜本庄宿)
(深谷市岡部の中宿遺跡公園古代蓮池)
深谷駅から先中山道は国道17号線と一旦合流しそこから更に2km程先のY字路(岡部駅入り口交差点400m手前)で17号線から右方向にそれ滝岡の渡し址へ向かいます。
Y字路から約1km進んだ交差点(岡部駅前交差点からのびる道と交差する)を右折し街道から200m程それた所に中宿遺跡公園があります、7〜8世紀の律令体制下の郡衙(郡役所)の倉庫群と言われています、当時物資輸送の為に東山道(高崎方面)から江戸方面へのびる街道、中山道武蔵路の先駆けと成る道筋が既に存在していた事になります。
中宿遺跡公園
滝岡の渡し場址
中山道に戻り先へ進むと滝岡橋が見えてきます、この付近に滝岡の渡し場がありました。
消滅した三宿
滝岡橋を渡ると堀田地区に入ります、此処から先の堀田、牧西、傍示堂地区の三地区は江戸期以前に宿場を名乗っていました、江戸期になると中山道の宿場は69宿に定められてそれら三宿は除外され一農村集落となったのです。
堀田宿
中世街道筋のほとんど集落は宿場を名乗り木戸、関所を設けて通行税を徴収していました、その為西国から運ばれた商品が武蔵国に着く頃にはかなり高価な金額になっていました、江戸期に幕府は交易の活性化をはかりそれら不要な宿場、関所を廃止したのです。
牧西宿
傍示堂宿
中世の頃、鎌倉街道は寄居で分岐し此処堀田宿付近で中山道と合流していました。
中山道(堀田宿、牧西宿、傍示堂宿)の南側に15世紀後半築城された五十子城が在りました、当時享徳の乱(関東管領と古河公方の勢力争い)において中山道と鎌倉街道の交差する五十子は交通の要所でした、その為関東管領山内上杉氏はこの地に陣城を築き常時兵力を駐屯させたのです。
傍示堂地区を抜けると17号線に出ます、そのまま直進して17号線を越え2km程進み中山道交差点を右折し2つ目の信号を左折すると城下公園(本庄城址)が見えてきます、本庄城は16世紀中頃地元を領有していた本庄氏により築城され1590年(天正18年)の徳川家入国後小笠原氏が本庄藩1万石で入城しました。
本庄の宿は本庄城の城下町がその始まりです。
城山稲荷神社
城山の下手小山川沿いに在り本庄城の守りとして祭られました。
田村本陣の門
中山道交差点まで戻ります、そこから旧街道を進み中央1丁目のT字路から右側2つ目の路地に入ると歴史民族資料館があります、資料館前には田村本陣の門が移築されています、天保年間本庄宿は旅館70軒と大いに賑わい本陣も田村本陣以外にもう一箇所宿の南側に在りました。
武蔵国内中山道