中山道
(板橋宿〜浮間、舟渡、
戸田の渡)

関東、歴史旅行情報

こちらもよろしくお願いします、新しいサイトです、武州の城を超える情報が盛り沢山です。
武州の城topへ

 室町期から戦国期にかけて荒川は交易の為の水路でした、遠く西国や明国から運ばれた珍しい品々を満載した船が江戸経由で入間、比企方面に向かい荒川を往来していました。

武蔵南部へ
蕨宿
浦和、大宮宿
桶川、鴻巣宿
熊谷、深谷宿
五十子〜本庄宿

武蔵国内中山道

板橋

志村一里塚

 街道の目印として植えられた樹齢数百年の榎でその下を通行すると不縁をもたらすと信じられ婚姻のさいは此処を避けたと云われています。

 更に街道を進むと国道17号線と合流します、そこから17号線沿いに北に進むと志村一里塚が在ります。

 橋の脇に日本橋から2里25町33間の道標が立っていました、日本橋から約8,25kmですね。

縁切り榎

 石神井川には板橋と呼ばれる木造風に造られた橋が架けられています、板橋宿の地名はこの橋の名前からきているのです。

 標識道理に北に進むと石神井川に差し掛かります、石神井川と言えば城址サイトを公開してる自分はまず豊島氏を思い浮かべます、豊島全盛の頃に板橋宿近辺はその氏族、板橋氏又は滝野川氏が領有していたと考えられます、何れにせよ中山道と旧河越道の合流する板橋宿付近は交通の要所で古来より交易が盛んに行われ豊島氏に繁栄をもたらしたのでしょう。

石神井川

 東武東上線大山駅を降りて東に進み国道17号線を越えて仲宿に入りまず目に付いたのは旧中山道と書かれた道路標識です、此処仲宿は江戸期に板橋宿の中心街でした。

 古代律令体制下の時代に東山道と云われる官道が都から美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国を経て陸奥国まで延びていました、それが何時の頃か江戸から板橋、大宮、蕨、熊谷、深谷、本庄を経て高崎で旧東山道と合流する支道が繋がり江戸期に旧東山道と支道を合わせて中山道、中仙道(現国道17号線)と成ったのです、江戸期に措いて中山道の宿場は六十九次に定められていましたがそれ以前、室町期後半の頃には街道に隣接する集落全てが宿場と成り関所又は木戸を設けて旅人から通行税を徴収していました、乱世の時代に入ると中山道は東海道と同様に関東から都まで一気に抜けられる主要幹線道として戦国大名から重要視され軍用道路として利用される様になりました。

板橋宿

志村城址

 17号線に戻り更に2km程北上して東に曲がるとJR浮間舟渡駅北口正面に浮間公園があります、公園内の浮間ヶ池は旧荒川で昭和3年の直線化工事が行われる以前の荒川です、工事以前の荒川は南に大きく蛇行し湾曲していました、湾曲した内側が浮間地区、西側が舟渡地区であり当時の浮間地区は埼玉側でした。

 一里塚から17号線を300m程北に進み600m程西にそれると志村城址公園が在ります、志村城は豊島氏系志村氏の城でしたが志村氏は1476年(文明8年)長尾景春の乱で宗家豊島氏を見限り太田道灌に付きます、その後志村氏は滅びて志村城は赤塚千葉氏の城と成ります、中山道沿の志村城は中世の時代戦略的に重要な城でした。

浮間、舟渡

戸田橋付近の荒川

 また17号線に戻り少し進むと荒川の戸田橋に差し掛かります、此処戸田橋付近には渡し場が存在していました。

(浮間公園)

荒川を往来する交易船

 江戸期に入る以前、中世の時代街道筋の大きな河川の両岸には河川が増水して通行できない時の為に双方の集落が宿場と成っていました。

荒川の両岸