中山道
(熊谷、深谷宿)
関東、歴史旅行情報

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武蔵国内中山道

 深谷城の城下町が深谷宿の始まりです、江戸期の始め深谷藩が無くなり深谷城が廃城と成った後もその城下は宿場として発展したのです。

深谷宿イメージ

 享徳の乱の後深谷城は深谷上杉氏の拠点となりました。

 旧中山道は国済寺の裏手を通り県立深谷第一高校前交差点で17号線と交差して平行に西方向仲町へ向かいます、途中本住町の交差点を右折して17号線の城址公園前の交差点を過ぎた所が深谷城址公園です。
 15世紀後半の享徳の乱で太田道灌は五十子城、深谷城、蕨城、江戸城を中山道沿いに築城し中山道を押さえました、当時中山道は重要な軍用道路でもあったのです。

庁鼻城を築城した上杉憲英は深谷上杉氏の祖です。

黒門

本堂

深谷城址公園

熊谷寺

 熊谷氏の菩提寺で館址です、熊谷氏は此処を拠点に熊谷の地を開拓したのです、その後熊谷氏宗家は室町初期に南北朝の騒乱で足利尊氏に従い尊氏から信頼うけて安芸国三上庄の地頭職に任命され熊谷を離れ安芸国に在住し後の戦国期に毛利元就の被官と成ったのです。
 熊谷に残った分家は戦国期に高力氏と称し1590年(天正18年)徳川家康入国の後岩槻2万石を賜り岩槻藩主と成ったのでした。

熊谷市役所前の並木道

 市役所前から国道17号線にかけて並木通りと成っています、

熊谷駅前の熊谷直実像

 JR熊谷駅前には源平の合戦の時に源義経に従い一ノ谷で功を上げた熊谷直実の像があります。

 熊谷宿に入りました、熊谷宿は江戸から数えて8番目の宿場となります、熊谷の地は平安期に武蔵七党の私市直季が熊谷氏と姓を改め武蔵目代(地域豪族達のまとめ役)としてこの地に館を構えて現在の市内を開拓したのがはじまりです。

旧秩父道の道標

 17号線石原北の交差点は中山道と秩父往還道との分岐点です、秩父巡礼に行く人々が此処から寄居、釜伏峠を越えて秩父盆地へ向かったのです、また中世から江戸期にかけて中山道、秩父往還道ともに重要な交易道で秩父盆地から江戸方面に向かって絹、和銅などがひんぱんに運ばれていました、関東のシルクロードですね。

 戦国の頃東京都奥多摩町日原は此処熊谷市原島地区に在住するの豪族が戦に破れてこの地を逃れ落ち武者と成り開拓したと云う伝承があります、(原島丹次郎友一といひしが、天正年中の乱を避けてここに来りしより)新編武蔵風土記多摩郡の稿、15世紀後半熊谷から本庄にかけて享徳の乱(関東管領と古公方の争い)の激戦地でした、戦に破れた原島氏は故郷原島地区を離れ奥多摩の山奥に逃れて行ったのです。

原島地区

三門

国済寺(庁鼻和城址)

 領主の館を中心に田園と村落が広がっていました、当時一揆衆の兵士の大半はこの田園で労働する農民達です。
 17号線沿いに玉井地区隣の別府地区も武蔵白旗一揆別府氏の拠点で別府氏城(東別府神社)、別府氏館など別府氏縁の遺構が現在も残っています。

 玉井地区から3km程17号線を深谷方向へ進むと国済寺の黒門が見えてきます。
 国済寺は南北朝時代に関東管領上杉憲顕が南朝方の新田氏牽制の為六男憲英に庁鼻和城を築城させ城内に国済寺を創建したのが始まりです。
 庁鼻城は170m四方の方形の館で土塁などが現在も残っています。

(中世玉井地区イメージ

 原島地区から17号線を少し進むと玉井地区に入ります、室町期から戦国中期の頃玉井地区から隣接する別府地区は武蔵白旗一揆(武蔵北部における中小武士団の軍事同盟)の本拠地でした、乱世の時代は中小武士団が単独で存続する事は困難で一揆と呼ばれる軍事同盟を組んでいました、現熊谷市内の武士団別府氏、玉井氏、三ヶ尻氏を中心に武蔵北部では武蔵白旗一揆を結成し戦乱に備えていました。

玉井地区